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姫路本町68番地事業協同組合


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姫路木綿の歴史
御切手会所・御国産木綿会所(戦災で焼失)
木綿の専売
 姫路藩は、酒井氏の代にやはり藩の財政は苦しく、藩主忠道(ただみち)の1808年(文化五年)には、藩の借金が73万両に達したそうです。
藩主から、財政の改革を命じられた家老の河合寸翁(すんのう)は、藩の特産物である木綿に目をつけました。
 当時、姫路木綿の主な送り先ある、大阪の問屋のかいたたきひどくなっていたので、木綿の専売制を実施するとともに、大阪市場に見切りをつけ、藩が独占して江戸へ直接送る方法をとることにしました。
しかし、大阪商人の手を経ないで江戸へ直送することは、新しい方法なので、その許可を得ることが困難でした。
そこで、慎重な市場調査をし、江戸の問屋や幕府の役人の了解を得る努力を重ね、1823年(文政六年)にやっと江戸で木綿専売を認められることになりました。
 後に、他藩にも、木綿の専売件権を得ようとする運動が起り、大問題となりましたが。藩主忠実(ただみつ)の子忠学(ただのり)と結婚する喜代姫(きよひめ)が将軍家斉(いえなり)の娘であり、江戸専売の利益を喜代姫の化粧料にあてることを理由として、他藩の割り込みを防いだということです。
 加古川付近は、藩の綿花の大栽培地でした。農民が収穫した綿を糸にして綿布を織ると、木綿商がそれを買い集め、江戸積仲間(えどづみなかま)に売り渡しました。江戸積仲間は、晒屋仲間(さらしやなかま)にこれを回し、晒木綿にして荷扱所(にあつかいしょ)に送り、ここで荷物受取証をもらい、藩札を取り扱う御切手会所(おんきってかいしょ)で、代金の7〜8割を藩札でもらい、残金は江戸で品物が売れてから支払われるという仕組みでした。
 荷物は江戸回船で送られ、江戸での取引は幕府の正金銀(しょうきんぎん)でしたから、江戸表の藩邸には、木綿だけで年額24万両余りという多額の正金銀が入るようになりました。
藩の借金は、江戸専売を始めてから早くも7、8年で返済するすることが出来たといわれています。
 姫路木綿は、技術が優れていたため品質は薄地で柔らかく、その上、市川や加古川の水質が木綿を晒すのに適していたので、色が特に白く、姫玉(ひめたま)とか玉川晒と呼ばれ、江戸では大好評を得ました。一部は奥州にまで送られたようです。